江の島歴史散策マップ
稚児ヶ淵
稚児ヶ淵 |
解説
稚児ヶ淵は、幅50mにわたって隆起した海食台地です。大島、伊豆半島、富士山が一望でき、神奈川景勝50選の一つに選ばれています。万治2年(1659)の中川喜雲の『鎌倉物語』などに見られる鎌倉相承院の稚児白菊と建長寺広徳院の自休蔵主が相次いで身を投げたとする話は、文化 14 年(1817)初演の四世鶴屋南北の「桜姫東文章」にも取り入れられて広まりました。
龍燈松碑
文化6年(1809)に江戸の深川新地の五明楼の喜兵衛が建てました。五明楼は当時繁盛した遊郭です。
服部南郭詩碑
服部南郭(1683~1759)は儒学者で漢詩人。通称を小右衛門、名は元喬、字は子遷です。京都に生まれ、江戸に出て、 16 歳で柳沢吉保に仕え、後に荻生徂徠の門下となり、徂徠の門弟として、経学の太宰春台に対し詩文の南郭と並び称されました。 34 歳の時に柳沢家を辞し、現在の渋谷区東の南郭坂の別邸で塾を開きました。この詩は江の島に来て、稚児ヶ渕の岩壁に波が砕け散るさまを吟詠したものです。詩碑は南郭没後の文化2年(1805)に同志らが建立しました。
佐羽淡斉詩碑
佐羽淡斉は上州桐生(群馬県)の富豪で吉右衛門を名乗り、桐生の織物産業の拡大に勤めました。詩人としては、大窪詩佛 (1767~1837 )門下になります。翠屏吟社を設けて漢詩を広めるとともに、全国の名所旧跡を遍歴して百詩碑建立を図り、この碑はその第1号として建てられました。現在の碑は、後年の罹災で碑面が剥落していたものを子孫が再建したものです。
芭蕉句碑
「疑ふな 潮の花も 浦の春」とあります。元禄2年(1689)春の作で、芭蕉(1644~1694)が伊勢の二見ヶ浦の図を見て詠んだものです。寛政9年(1797)に建てられたもので、施主は京都の俳人組合、江の島をはじめ片瀬・鎌倉などの俳人が補助しました。この句が江の島の風情に似合うことから選ばれて造立されました。台座に「潮墳」とあり、潮墳の碑と呼ばれています。筆跡は五柏園丈水(~1808)で、寛政期における江の島俳壇の指導者です。
八雲庵碑
年代は不明で、「遊江嶋」と題する漢詩があります。
稚児ヶ渕句碑
風化が激しく、年代・作者とも読みとれませんが、「むかしむかし散るや さくらの稚児ヶ渕」とあります。
永瀬覇天朗句碑
覇天朗の本名は永瀬登三郎(1873-1937)です。藤沢大坂町坂戸の酒屋日野銀の主人でした。当時の地方俳諧の最先端を歩み、句集「覇天朗」を成しました。この句碑は昭和12年(1937)に桟橋のところに建てられたのですが、波浪で破損したのを、江の島俳句協会をはじめ湘南地帯七市町の俳句協会の協力によって昭和36年(1961)に再建したものです。