江の島歴史散策マップ
辺津宮出口
辺津宮出口 |
巳待灯籠
元文6年(1741)に江戸本所(現墨田区)の石坂講中が建てたものです。巳待とは、巳の日に講の人々が集まって、深夜まで飲食して精進供養をし、身体安全や家内・村内安全、五穀豊饒などを祈る行事です。弁財天の使いが蛇であることから、巳待では弁財天を本尊として祀ることが多く行われました。
灯籠(右)
戻る方向で辺津宮に向かって右の灯籠は文化 9 年( 1812 )に、江戸八丁堀(現中央区)の百味講が奉納したもので、対になる左の灯籠も文化 5 年( 1808 )に同じく百味講が建てています。歌舞伎の「弁天娘女男白波」の弁天小僧のセリフに「知らざあ言って聞かせやしょう………前をいやあ江之島で、年季勤めの児ケ淵、江戸の百味講の蒔銭を、当に小皿の一文子、百が二百と賽銭のくすね銭せえだんだんに悪事は上る」とあります。百味講とは神仏に百味を奉納する講という意味で、各地にありました。
灯籠(左)
灯籠
文化5年(1808)に奉納されたものです。江戸を中心に奉納者の名が230名以上刻まれていますが摩滅して読みとれないものが大半です。
嗽水盥
文化6年(1809)に、江戸の芝口汐留(現港区)の吉野屋が奉納したものです。
震柳居九江句碑
九江は震柳居の四世で明治・大正期の俳人です。大正 13 年( 1924 )に門下生が建てました。「月涼し おもむろに聞く 琴の曲」と刻まれています。
猿田彦大神供養塔
天保3年(1832)のものです。猿田彦大神はニニギノ尊が天降った時の道案内人であることから道祖神として、芸能・舞踊の祖神アメノウズメノミコトと夫婦になったことから芸能神として信仰されています。また、庚申信仰では、人の悪事を天に伝える三尸の虫を退治する神とされていますが、これは庚申の「申」が猿田彦神と結びついたといわれています。碑文は藤沢宿の書家として知られる阿部石年の作で、石年の墓は鵠沼の万福寺にあります。