藤沢市内には、350箇所を超える遺跡1が存在します。そして、開発行為などに伴い、毎年多くの発掘調査がおこなわれてきました。今回はその中でも、「中世」という時代に焦点を当ててみます。発掘調査で見えてくる、藤沢の中世はどんなものでしょう?
「中世」ってどんな時代?
「中世」と聞くと、中世ヨーロッパが思い浮かぶ人も多いかもしれません。日本における「中世」とは、およそ鎌倉幕府の成立から、江戸幕府の成立までの時代、つまり、鎌倉時代、南北朝時代、室町時代、戦国時代、安土桃山時代のことを指します。ざっくりいうと、武士が活躍した時代と言えます。発掘調査の現場では、宝永の大噴火で降った富士山の火山灰を目印にして、中世と近世(≒江戸時代)を分けています。
藤沢市内にはどんな中世の遺跡があるの?
藤沢市内には、中世に属するとされる遺跡が79箇所あります。なかでも中世に特徴的なのは、「城館跡」と「やぐら」の2種類の遺跡です。
「城館跡」は、文字通り、お城や砦、館の跡です。藤沢市内には、藤沢市指定の史跡である「大庭城跡」や、そのほか村岡地区周辺などに点在しています。文献史料によれば、平安時代の終わりごろから、大庭地区は「大庭御厨」という伊勢神宮の所領であったので、おそらくそれにともなう館があったはずですが、現在までに発掘調査で見つかっている城館跡は、中世の中頃以降のものに限られています。
藤沢市内の中世の遺跡
やぐらのようす
「やぐら」は、崖を四角形に掘りぬいて造られた、横穴状の遺構2です。葬送に関連した遺物3がよく見つかるので、宗教施設であると考えられています。藤沢市内では、川名周辺の丘陵地帯によく見られ、年代的には中世の中頃、およそ14世紀末から15世紀ごろに使われていたと考えられます。写真は川名森久横穴群という遺跡で調査されたやぐらです。中に転がっている石のようなものは、倒れたり崩れたりしている五輪塔の一部で、元から並べられていたもののほかになぜか投げ込まれたものもあるとみられています。この「やぐら」という遺構は、神奈川県では、主に鎌倉を中心とした南東部に多くみられる遺構なので、当時の川名周辺も、鎌倉の影響を強く受けていたのでしょう。4
中世のお城について調べてみよう(大庭城跡)
湘南ライフタウンの東端にある大庭城跡は、大庭城という中世(主に戦国時代)の山城の跡地です。相模国の守護(県知事のようなもの)であった扇谷上杉氏や、伊勢宗瑞(北条早雲)が有名な後北条氏が使用したと考えられています5。お城といっても、石垣や天守のある「石の城」ではなく、土を掘ったり盛ったりして守りを固めている「土の城」なので、一見すると地味なただの山であるかのように見えます。ですが、実はお城に石垣や天守が築かれるようになったのは近世になってからなので、この状態こそが、中世のお城のあるべき姿を非常によく残しているということなのです。現在は藤沢市立大庭城址公園として整備・保存されています。
大庭城跡では、現在までに25回の発掘調査が実施されています。この遺跡には中世以外にも様々な時代の遺構があることがわかっていますが、大庭城の調査を目的として行われた発掘調査は10回で、4棟の掘立柱建物跡、25本の堀のほか、土塁6や土橋7、切岸8などが確認されています。
空から見た大庭城跡(1990年撮影)
掘立柱建物跡(左)と現在の主郭跡(右)
掘立柱建物跡は、大庭城のある城山台地の南端部でみつかっています。大庭城は、縄張り9研究により、4つの郭10により構成されていたと考えられています。この場所は、そのうち後世でいうところの本丸である、主郭と考えられている場所です。これらの建物のうち3棟は、寄棟造あるいは入母屋造の屋根を持つ、立派な造りの建物であったと推定されており、主郭の中でも中心的な建物であったのではないかと考えられています。また、この場所からは、15世紀中頃から16世紀初頭に燃えたとみられる、もみ殻がついたまま炭化したお米がみつかっています。このことから、おそらく15世紀ごろに、これらの建物は使われていたと考えられます。
発掘調査でみつかった大庭城の防御施設
現在の3号堀のようす
22号堀の調査のようす
発掘調査で確認された25本の堀は、ほとんどが横堀と竪堀に分類できます。横堀は敵の侵入を阻むための堀で、山肌に沿うように掘られています。図中の赤色の堀がこれにあたります。写真のように、堀の斜面は実際の山肌よりさらに急傾斜になり、さらに足場の黄色い土はローム層という非常に滑りやすい土なので、よじ登るのは至難の業だったことでしょう。竪堀は、敵が回り込む(横移動)のを阻むための堀で、横堀と直交する方向に掘られています。図中の緑色の堀がこれにあたります。一部は、斜面からそのまま台地の上の平場まで切り込み、郭を分ける役割も果たしています。図中のオレンジ色の堀は堀切と思われ、尾根を分断することにより尾根伝いで攻めてくる敵の侵入を阻みます。青色の8号堀は、南側の土塁とセットで馬出11状の遺構であると考えられています。この場合、6号堀と7号堀の間にある2号土橋を守るためのものだと考えられます。発掘調査で確認された堀以外にも、等高線から複数の堀の存在が確認されており、大庭城は何重もの堀に守られた、立派な城であったことがわかっています。
堀や土塁の一部は、現在も大庭城址公園内で地表からその形を見ることができます。また、公園の管理棟では、より詳しい解説パネル展示も行われていますので、ぜひお立ち寄りください。
溝に囲まれた、武士の館?(長後天神添北遺跡・長後天神添南遺跡)
長後天神添北遺跡周辺でみつかった溝
長後駅から北に1㎞ほど離れた、長後天満宮付近に位置する長後天神添北遺跡と長後天神添南遺跡では、複数本の溝(溝状遺構)が検出されています。図中の赤い線が、検出された溝の位置です。このあたりには、中世のころ、武士の居館があったとされており、これらの溝はその館に関係するものであると考えられています。ただ、実際に館の跡が見つかっているわけではありません。それなのにどうしてこのような説が示されているかというと、溝の形と、溝からみつかった遺物に理由があります。
まず、形から見ていきましょう。図中の①の溝ですが、断面がV字形になっています。幅は約3ⅿ、深さは約2ⅿなので、敵の侵入を阻むためのものかはわかりませんが、お城にも見られるような特徴的な形のこの溝は、武士の館に関係するものではないかと考えられています。
次に遺物ですが、図中の②の溝からは、多量のかわらけ12がみつかっています。かわらけは、見た目は非常に素朴な土器ですが、一説には、宴の席で大量に消費された、使い捨ての器であると考えられています。つまり、かわらけが数多く廃棄されているこの溝は、ある程度高い階級の人々の生活に関係のある遺構である可能性が高いのです。そのほかにも、輸入品である白磁の破片などが見つかっている溝もあります。
①の溝の調査のようす
②の溝の調査のようす
以上の理由から、これらの溝は武士の居館に関係するものであると考えられています。ただ、まだ部分的にしか発掘されていないので、この溝がどのようにめぐるのか、また実際に館がどこにあったのかはわかっていません。
現代にも残る?中世の道(稲荷台地遺跡群)
善行駅から西に1㎞ほど行ったところにある稲荷台地遺跡群では、中世のものと思われる道路状遺構が見つかっています。ここでいう道路状遺構とは、土がカチカチに硬くなった「硬化面」が、直線状に続く遺構のことです。なぜ硬いのかはハッキリとはしませんが、おそらく人が何度も通ったことにより、踏み固められたのだと考えられています。稲荷台地遺跡群は範囲が広く、また多くの時代に亘って利用されてきた場所なので、40回もの発掘調査がおこなわれていますが、道路状遺構はその中の10地点で確認されています。
一部は同一のものであると考えられていますが、少なくとも4本以上の道になると思われます。興味深いのは、図中の赤色で塗った道路状遺構が、現在の道路(図中オレンジ色)とほぼ同じ軸で走っているということです。もしかしたら、この道路は中世のころから利用されてきた道なのかもしれません。現代の道や町のかたちも、歴史の積み重ねであることがわかる遺構といえます。
稲荷台地遺跡群でみつかった道路状遺構
遠路はるばる、天目茶碗(大庭引地遺跡)
みつかった天目茶碗
みつかったときのようす
写真は、国道1号線・城南交差点の近くにある大庭引地遺跡で見つかった、天目茶碗の破片です。これは13世紀の中頃~末頃に、現在の中国南部・福建省のあたりにあった、(南平)茶洋窯というところで作られたものだとわかっています。陶磁器は、作られた場所や時期によってその形や模様などが違い、その違いから詳細な編年13が組まれているので、このように作られた時代を逆引きすることができるのです。茶碗がひとりで海を渡ることはできないので、誰かが持ち込んだ、あるいは輸入したものが、巡り巡って藤沢までやってきたのでしょう。
この茶碗の破片は、小さい穴にひとつだけ埋められていました。一緒になにか時期のわかる遺物が埋められていればよかったのですが、この破片だけでは、藤沢まで、どれほどの時間をかけて移動し、どのような経緯で埋められたのかはわかりません。ただ、この穴を埋めていた土のようすから、おそらく、中世の終わりごろまでには、この場所に埋められたものと考えられています。
もっと中世について調べてみよう
今回取り上げた5つの遺跡の他にも、市内では多くの中世の遺跡が発掘されています。また、藤沢市周辺には、鎌倉のような中世に非常に繁栄した都市もあり、多くの発掘調査がおこなわれています。実際に遺跡に行ってみたり、博物館で遺物を見たりすると、中世についてもっと詳しくなれるかも!
近くの博物館・学習館に行ってみよう
神奈川県内にある博物館
神奈川県立歴史博物館
この博物館には5万点以上の資料が収蔵されています。また、展示品へ理解を深めやすくする子ども向けの体験講座も実施されています。
横浜市歴史博物館
横浜に関する歴史や文化財などのビデオを見たり、マジックビジョンという人や物が立体的に見える装置によって、当時の人々の暮らしの様子を見ることができます。
平塚市博物館
「相模川流域の自然と文化」をテーマに活動している地域博物館です。
茅ヶ崎市博物館
郷土の歴史を伝える資料を永久に保存する資料館です。さまざまなワークショップや展覧会等の教育・普及活動を展開しています。
鎌倉歴史文化交流館
鎌倉で発掘された出土品をメインに、原始・古代から近現代に至る鎌倉の歴史を紹介しています。最新の発掘調査の成果をふまえた企画展、講座やワークショップなどの各種イベントも随時開催しています。
- 1遺跡:遺構や遺物を包括する土地。
- 2遺構:建物の跡など、昔の人の活動の痕跡。
- 3遺物:土器など、昔の人が使っていた道具。
- 4ちなみにこのあたりでは、古墳時代ごろに使われた「横穴墓」と呼ばれる、よく似た形態のお墓も多く見られ、なかにはこの横穴墓を改造して造られたやぐらもあります。
- 5大庭城は大庭景親の居城であったという伝承もありますが、そのような歴史的記述は見つかっていません。
- 6土塁:土を人工的に盛って造った防御施設。
- 7土橋:堀を掘るときに、わざと掘り残して作った橋。
- 8切岸:斜面をさらに切り崩し、人工的に造った崖。
- 9縄張り:郭や堀の配置など、城郭の平面的な構造。
- 10郭:堀や土塁で区画された平場。必ずしも居住空間であるとは限らない。
- 11馬出:城門の前面などに設置された防御施設。
- 12かわらけ:素焼きの、皿形の土器。
- 13編年:遺物(人工物)の形などの変遷を、順を追って示したもの。これをもとに、遺物や遺構の使われた年代を考えることが多い。
参考文献
- ・秋山重美2000『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群E・F・S地点 発掘調査報告書』稲荷台地遺跡群発掘調査団
- ・伊藤甚吉2005『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 池ノ辺遺跡 第7地点 発掘調査報告書』玉川文化財研究所
- ・宇都洋平2010「藤沢市域における中世遺跡の展開についての一考察」『藤沢市文化財調査報告書』第45集 藤沢市教育委員会
- ・宇都洋平2021『神奈川県藤沢市大庭城跡Ⅱ ―第24次・第25次発掘調査報告書―』藤沢市教育委員会
- ・宇都洋平2018『神奈川県藤沢市 大庭城跡 ――1968年~1971年の城郭に関連する発掘調査の記録』藤沢市教育委員会
- ・大坪宣雄ほか2021『神奈川県藤沢市 大庭引地遺跡第1次調査 発掘調査報告書』有限会社吾妻考古学研究所
- ・小野正敏ほか編2007『歴史考古学大辞典』吉川弘文館文化庁文化財記念物課2013『発掘調査のてびき―各種遺跡調査編―』
- ・香川達郎ほか2019『神奈川県藤沢市 大庭城跡 第23次調査 発掘調査報告書』玉川文化財研究所
- ・小池 聡ほか2011『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群唐池遺跡第2地点』株式会社盤古堂
- ・鯉渕義紀ほか2008『神奈川県・藤沢市 天神添北遺跡・渋谷城跡発掘調査報告書 ―長後字天神添1292番23―』有限会社鎌倉遺跡調査会
- ・小山裕之ほか2010『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 引地脇遺跡第2地点 発掘調査報告書』藤沢市教育委員会
- ・齋藤 忠1983「中世考古学概論」『中世の考古学―遺跡発掘の新資料―』齋藤 忠編 名著出版
- ・斎藤 忠1992『日本考古学用語辞典』学生社
- ・千田利明2009『神奈川県藤沢市 天神添北遺跡・渋谷城跡第5・6次調査 ―藤沢市長後天神添における埋蔵文化財発掘調査報告書―』有限会社ブラフマン
- ・坪田弘子2005『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 発掘調査報告書 中郷遺跡第1地点・石名坂遺跡第4地点』玉川文化財研究所
- ・坪田弘子2012「2.長後天神添遺跡 第2次調査」『神奈川県藤沢市 藤沢市内埋蔵文化財発掘調査概要集』藤沢市教育委員会
- ・中村哲也ほか2013『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群 天神原遺跡 第5次調査 発掘調査報告書』玉川文化財研究所
- ・三ツ橋勝2006「神奈川県・藤沢市 天神添北遺跡発掘調査報告書」『藤沢市文化財調査報告書』第41集 藤沢市教育委員会
- ・湯山 学1979『藤沢の武士と城―扇谷上杉氏と大庭城―』藤沢文庫3 名著出版
- ・横山太郎ほか2020『神奈川県藤沢市 稲荷台地遺跡群第40次調査 ―発掘調査報告書―』有限会社吾妻考古学研究所
- ・吉岡秀範ほか2013『神奈川県藤沢市 天神添北遺跡第7次調査・渋谷城跡第8次調査 発掘調査報告書』株式会社アーク・フィールドワークシステム
- ・渡辺清史ほか1996『藤沢市川名森久地区 埋蔵文化財発掘調査報告書』Ⅱ 川名森久地区遺跡発掘調査団
- ・図に使用した地図は『地理院地図(URL:https://maps.gsi.go.jp)』のデータを基に作成